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08年移動運用第28回横浜市港南区移動 本日は本来なら違う場所に移動運用する予定でしたが、天気も良くないので移動場所を変更。 横浜市港南区に移動しました。 今回初めての場所ですが、ロケは道の駅山北より悪いかも知れない場所です。ただローバンドやるには問題なしです。 やはりコンディションも良くないのでしょう7SSBでもあんまり呼ばれません。 早々とCWをやることにしてNLOさんと交信。そしてクラスタアップもありがとうございました! CWやりはじめたらコンディション悪いにもかかわらず結構呼ばれました。 こういうときにはCWやるのがいいかもしれませんね! そして、今回未交信地域沖縄県南城市、埼玉県羽生市、高知県南国市、他4郡と交信も出来ました。 最終的に7SSB&CWで約90交信しました。 とうとう横浜市内移動も残りは瀬谷区を残すのみになりました。 この瀬谷区は私も横浜市全18区交信したときの最後の区です。 とにかくここは他のJCCより相当苦労したかもしれないです(笑)ここは移動できる場所は確認済みなので近いうちに移動運用したいとおもいます。 NLOさんをはじめ呼んでいただいた皆様ありがとうござ
“羽生城”へ行きませんか?(35) ―元亀3年の羽生城攻防戦?― 2008年08月28日 忍勢は羽生城を2重3重に取り囲む。 羽生勢は城に籠もり、徹底抗戦の構えである。 素直に和睦に応じる相手ではない。 多少の犠牲はやむを得ない。 力攻めでいくしかなかった。 氏長はこの戦いで羽生城を落とすつもりだった。 かつては、援軍に駆けつけた岩付城主“太田資正”に撤退を余儀なくされたが、 岩付城はすでに後北条氏の手に渡っている。 時は熟した。 氏長は突撃命令を下す。 一気に城へ押し寄せる忍勢。 東南北を大沼で囲まれた羽生城は堅固である。 幾度か成田氏を撃退せしめた忠朝の指揮も鮮やかであり、 羽生城攻防戦はたちまち混戦を呈する。 因縁の成田氏との合戦とあって、 城兵たちの士気も高い。 羽生城はそう容易に落とせそうになかった。 そこで、氏長は羽生城の虎口の攻撃を緩める。 わざと城兵を逃がすためだ。 逃亡者を続出させることで、 中からの瓦解を図ったのである。 この策は功を奏する。 多勢に無勢であり、羽生陥落は時間の問題だった。 そのことを悟った城将たちは、 再起を誓って羽生城を
“羽生城”へ行きませんか?(34) ―元亀3年の羽生城攻防戦?― 2008年08月27日 元亀3年8月、忍城主“成田氏長”は皿尾口から出陣し、 羽生城へ向かった。 羽生城を守るのは城主“木戸忠朝”をはじめとする、 木戸重朝、菅原為繁ら城将たちである。 上杉謙信に属し、成田氏とは対立関係にあった。 氏長の父“成田長泰”は、かつて忠朝と干戈を交え敗北を喫している。 氏長もまた、昨年の夏に奇襲を仕掛けようとしたものの、 岩瀬河原にて羽生勢と激突し、 撤退を余儀なくされている。 かねてより木戸氏との因縁は深い。 自領の安定を図る上でも、 羽生領の併合は必須だった。 もとより実質成田氏が支配していた羽生領は、 新参者の広田・木戸氏によって乗っ取られたのも同然だったのだ。 そんな彼らに羽生領を安堵したのが“上杉謙信”であり、 成田氏にとって謙信へのわだかまりは深い。 忍勢は会の川を越えて羽生領に侵攻。 境界線であるその川沿いには、 羽生支城の“内手”、“堀の内”、“川俣城”、“本光寺城”が絶えず監視をしていた。 侵攻してくる忍勢を防ぐべく、 城兵たちは武器を手に取り抗戦する。 その
クニのウラ部屋雑記(23) ―まわり地蔵― 2008年08月24日 8月23日は、本川俣の“まわり地蔵”が年に1度だけ “千手院”(埼玉県羽生市本川俣)に戻る日。 普段は本川俣の家々をまわっています。 2008年のこの日は処暑にふさわしく気温が下がり、 雨がシトシト降っていました。 この手の雨は夜闇を濃くするものです。 雨に煙る千手院はひときわ暗く見えました。 境内には人はまばらでしたが、 本堂の前にまわり地蔵が置かれ、 そこだけ少し明るく見えます。 線香を手向け、手を合わせてご挨拶。 そのときもらったのは、団子と水ヨーヨーです。 ぼくは水ヨーヨーではしゃく年頃ではもうないのですが、 そのあと小さな女の子に会う約束をしたのでもらいました。 できればその子にも、まわり地蔵を見せてあげたかったなと思います。 なついてくるその子は、 来年の8月23日にはもう遠く離れた場所で暮らしているかもしれません、 母親の再婚話が持ち上がっているからです。 もしそれが具体化したら、年に一度会えるかどうかでしょう。 ファミリーレストランで、その子の母親から今後のことについて
地名のルーツ〜岩瀬〜利用地名:高島市 この地名は、明治7年旧岩神(イワガミ)・穴ガ瀬(アナガセ)2村の合併によって名づけられてものである。岩神は山門領のとき、ここに岩神社が祭られていたというから一種の地主神信仰にもとづいたものと考えられる。穴ガ瀬のアナは、〓くぼんだ所、〓むこうまで突き抜けたところ、〓欠けて不完全な所の意があり、セは川の浅い所の意で地形からの命名であることはいうまでもない。岩瀬は城下町の市場に対して、経済的に周辺的な役割をもった所で、問屋筋・職人筋の人々の多く居住した所であった。 とくに木地山の木地屋に対して、ここには塗師屋(山本・駒井氏)がいて朽木盆の名を高からしめたのであった。 『朽木村志』朽木村教育委員会 昭和57年3月30日 「岩瀬」地名の所在地 北海道深川市 岩瀬(いわせ) 北海道沙流郡 日高町 岩瀬橋(いわせばし) 岩手県久慈市 岩瀬張(いわせばり) 岩手県岩手郡 葛巻町 岩瀬張(いわせばり) 岩手県岩手郡 岩手町 岩瀬張(いわせばる)岩瀬張開拓(いわせばるかいたく)
モスバーガー(羽生PA店)@埼玉県羽生市... モスバーガー(羽生PA店)@埼玉県羽生市... 2008/8/19(火) 午後 2:34 What s Up 麺! イケ麺調査隊!隊員のまあです。 今回の イケ麺調査隊 の調査対象は ? 。 モスバーガー↓ 東京 遠征時、いつも利用するバスの 休憩 地点。羽生PA(上) モスバーガーなんてあっ ...
茨城県南部を震源、小美玉・坂東市等で震度4 茨城県南部を震源、小美玉・坂東市等で震度4 8月20日15時24分配信 読売新聞 20日午後3時13分頃、茨城県南部を震源とする地震があり、茨城県小美玉市、坂東市、鉾田市で震度4を観測した。 気象庁に寄ると、震源の深さは約50キロ、マグニチュードは4.5と推定される。 この地震による津波の心配は無いと言う。 震度3以上を観測した主な地域は以下の通り。 ▽震度3 宇都宮市、水戸市、茨城県笠間市、土浦市、古河市、石岡市、つくば市、下妻市、かすみがうら市、東京都新宿区、杉並区、足立区、埼玉県羽生市、川口市、八潮市、春日部市、さいたま市中央区、千葉県香取市、野田市、成田市、柏市
こうだくみ 愛証 ?こうだ くみさんの本名と芸名は(倖田 來未、本名・神田 來未子(こうだ くみこ)です。長崎県で出生したのは、1982年の11月13日ですが、育ったところは京都府ということです。2000年高校生のときに、take backという曲で歌手デビューを果たしました。18歳と年齢も若いのですが、その年齢に似合わず非常に官能的な歌い方で評判を呼びました。 こうだくみさんは、ドリカムのファンであり芸能界にとても興味を持っていました。芸能界デビューを目指してテレビ東京の「ASAYAN」という番組の中で募集していたモーニング娘の追加メンバーのオーディションを受け2次審査まで通過したときに、平行して受けていたエイベックスのオーディションで準グランプリを獲得、そのままエイベックスと専属契約を交わし見事芸能界入りを果たしたのです。 エイベックスのrhythm zoneレーベルから2000年12月6日、デビューが決定しました。日本より先にアメリカで「KODA」という名でデビューして、初のシングル「take back」はアメリカビルボードダンスポップセールスチャートで18位にランクされました。その実績を引っさげ
モスバーガー(羽生PA店)@埼玉県羽生市 What's Up 麺! イケ麺調査隊!隊員のまあです。 今回の'''イケ麺調査隊'''の調査対象は'''?'''。 '''モスバーガー↓''' '''東京'''遠征時、いつも利用するバスの'''休憩'''地点。羽生PA(上) モスバーガーなんてあったのね。 って感じで行ってみました。昔から'''モス'''は'''大好き!'''初めて食べた時の'''感動'''は忘れることが出来ませんね。 最近は年に数回しか食べないかな? 何故なら…… そんな余裕があれば!ラーメン喰ってますね。 でもぅ……たまに'''無性'''に食べたくなるのも'''事実'''。'''今回'''は今まで一度も食べた事の無い'''ホットドッグ系'''に挑戦してみましたぁ〜。 '''スパイシーチリドッグ(350円)↓''' '''プリッ'''とした食感のソーセージはとても'''ジューシー'''。'''濃厚'''なチリソースとみじん切りのハラペーニョ?の'''コンビネーション'''がGoodです。 ピリッとした辛さが刺激的。(  ̄ー ̄)ニヤリッ モスロールと具の'''バラン
“羽生城”へ行きませんか?(28) ―武田家臣の末裔― 2008年08月19日 武田信玄の家臣の末裔と称する家が、 埼玉県加須・羽生に点在している。 これは元亀2年(1561)に武田軍が北武蔵に侵攻したのと、 何らかの関係があるのだろうか。 例えばもし、そこに恋が生まれていたとしたら…… 武田軍の侵攻の際、 村人たちは城や寺社に逃げ籠もったと思われる。 そのとき村では何が起こっていたのかは記録にない。 おそらく乱取りもあっただろう。 決して穏やかではなかったに違いない。 ただ、中には純粋な男女の“出会い”もあったかもしれない。 惹かれ合う男と女。 2人は結ばれる。 しかし、男はいずれ村を出なければならない。 引き裂かれるような想いで2人は別れる。 ただ、女のお腹には新たな生命が宿っていた……。 あるいは男は村に残る。 そのまま2人は仲睦ましく暮らし、めでたしめでたし。 これは史料に基づいているわけではない。 筆者の勝手な想像である。 現代の感覚で歴史を見てはいけない。 ただ、出会ってしまえばただの男と女。 ひとつやふたつの恋も生まれていたかもしれない
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